2010年10月11日月曜日

強制起訴

 小沢さんの強制起訴。検察が不起訴相当と判断したものを、一般市民による検察審査会が繰り返し起訴議決すると、強制起訴になるそうな。
 当初、検察が不起訴としたのは、確たる証拠が見つからなかったからだという話だった気がします。では検察審査会の判断は、充分な証拠があるということなのか、それとも「あいつは信用できないから、起訴してでも追求してやる」という感情なのでしょうか。

 法廷の原則は「疑わしきものは罰せず」。"証拠がないと勝てないから起訴しない"というと、とても弱腰に聞こえますが、"証拠がないとということはその人は無罪かもしれない"ということですよね。罪を犯した人に罰を与える必要があるのと同時に、罪を犯していない人に罰を与えてはならないわけで、この二つは全く同じ重みを持っていないといけないと思います。罪を犯したと言えるかどうかの判断は、極めて慎重に行わなければいけません。その唯一の判断材料が"証拠"なのだとしたら、証拠が見つからない場合は罪は問えない、というのはごく自然な結論だと思えます。

 一般市民の感情としては、起訴=リングに上げるということなのでしょう。不起訴は戦いを放棄すること。確かに、印象として、相手をリングにまで引きずり上げた方が追い詰めた感じはするし、その人に対しての疑いがいかに強いかを表現することにはなると思いますが、そういった感情論を極力排除して客観的な証拠の積み上げで議論するところに、近代的な法廷システムの価値があるように思います。

 そういえば、裁判員制度も法廷への市民参加ですが、この制度も結果として量刑を重くする方に働く気がします。例えば殺人罪だとすると、一般市民にとって人を殺すということは、殺した人数や残虐性にか関わらず、大変なことです。犯人が、どう反省しようが更生しようが、被害者は戻ってこないわけで、取り返しようのない大罪に感じます。どんなに刑期が長い懲役刑でも足りなく感じるものだと思います。
 それに対して、現在の法律では、例え殺人罪であっても、極力犯人の更生に期待するという発想で罪の重さが決められていると思います。少なくとも私は、殺人を犯してちゃんと更生できた人がどれだけいるのか知りませんから、それが妥当かどうか判断できません。つまり、妥当ではないとも言えません。

 検察審査会、裁判員制度に共通するのは、法律のプロの方が寛大で、一般市民の方が残酷な傾向にあるということ。それはたぶん、一般市民は、いかに罪を問うか、いかに罰を与えるか、という一方的な発想になりがちですが、プロはそれに加えて、いかに罪を問わないか、いかに許すか、という逆方向の視点も持っているからだと思います。
 社会のあるべき姿を俯瞰的に見るなら、私はプロのようなバランスの取れた視点の方がいいように思えます。

 ところが、裁判官、検事、弁護士が事件を起こすこともしばしば。せっかく私が、プロの視点を評価しようとしているのに、残念なことです。

1 件のコメント:

  1.  プロの視点を評価したい、、まったく同感です。今回の大阪の件は残念ですよね。

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